八雲空の絵空事スケッチ

八雲空が感じたことを書きます

メルロ=ポンティの「身体」「肉」から人間を考える

毎週金曜日は哲学の授業があるから、ブログに書くこともその復讐みたいな内容になってしまうが、とくに問題はないでしょう。

あと、今回から文字のデザインをいじってみる。

 

今日はメルロ=ポンティの「身体」と「肉」という概念を学んだ。それは簡単に言うと、「身体」とは自分の意識下の精神を映すモニタであり、「肉」はそのモニタの内と外を分けるガラス(厚さのない膜)のようなものということになるだろう。

ここでぼくがポイントになると思ったのが、「肉」を定義するとき、区別するが同時に存在する必要があるということである。どういうことかというと、先週意識について考えたときにも急所となったことだけど、ここでも、自分の「肉」を定義し、意識するためにはやはり他者の存在が必要になるのではないだろうかということだ。

メルロ=ポンティは「身体」に映るものを描こうとしたのが当時の画家セザンヌらである、つまり例えば、セザンヌの作品「サントヴィクトワール山」に描かれているものを、「セザンヌによって見られたサントヴィクトワール山」であるとした。

では、ぼくが「サントヴィクトワール山」を真に理解することができたとき、それは、セザンヌの「身体」をぼくがトレースできたということにならないだろうか。セザンヌの「身体」モニタに映るものを俯瞰的かつ直接的に見ることができていると言えないだろうか。もしそうなら、「身体」が他人と共有されるものであるなら、「肉」こそが「自己」を表す大きな要素になるであろう。

ここで、「肉」は他者の存在によって定義が可能になるという性質を思い出すと、その「肉」によって決定される「自己」も、他人の存在によって定義されると、そういうことになるだろう。

 

ぼくはこの「自己」と他人が定義の要素を互いに担いあう関係がとても面白いと思い、また、では「自己」を「自己」によって(哲学的に)定義できる存在が、例えば神ということになるのかもしれない、と考えた。さてどうなのだろうか。

 

                  今日は晴れていた。暑い…