八雲空の絵空事スケッチ

八雲空が感じたことを書きます

殺人犯はそこにいる(清水潔) 読後感想

この本は事実が書かれている。「北関東連続幼女殺人事件」が闇に葬られたという事実が書かれている。

僕はこの本をミステリー小説だと勘違いをして購入して読み始めたということもあってか、普段小説を読むときと同様の軽い気持ちで読み進めていた。しかし、この本は現実の狂気、破綻、残酷さといったものを伝えていた。僕はこの現実に、どう「感想」を書いたらいいのかわからない。この本に対して抱いた今の一時的かもしれない感情や思考をただ書いて、それで満足だなんて言えるわけがないからだ。だからここに書くことは感想ではなく、表現にしたいと思う。清水氏の思考を全て読みとったつもりはないが、この本を他の人にも読んでもらいたいと伝えることが、この本の読者として最低限出来ることだと書いてあった気がしたからだ。

 

事件とは別に、清水氏は報道の在り方について綴っている。「小さな声に寄り添え」「再発防止のためだ」といったものだが、これらは実際問題、常に問題となり社会の未熟さを示すものであるように思う。差別や紛争など大きな社会問題に至ってもそうだ。被差別者の声を無視し続けるから対立が拡大する。権力にこだわるなどして、より良い未来への思考を巡らさないから争いは終わらない。当たり前のことだ。

この本は事件における「小さな声」に寄り添り、それによりごく当たり前なことすら出来ない社会という現実を伝えることで、本当の意味での「再発防止」を訴えたものだと言えるかもしれない。事件を知り、対応した機関の幼さを知り、改めて個人が問題意識と深い思慮を持つことが、社会には求められているということだ。そしてそれは拡大しないことには意味がない。だからこの本を読んでほしい。僕はそう表現する。

 

今日は晴れ。幼かった彼女たちの冥福と安らぎを祈り、自分の人生を全うするよう努める。

 

 

屍人荘の殺人(今村昌弘) 読後感想

※本記事はネタバレを含む

 

まず、あとがきでも言及されているが、この作品はメタミステリーという一面を持つと思う。作者がどこまで神経を使ったかはわからないが、正直なところ僕は、表面的なストーリ展開はテンプレートで読中も先の展開が簡単に予想できていたし、謎解きというミステリー定番のクライマックスも大した驚きはなかった。一部を除いては。

進藤を殺害した犯人、それが星川であると剣崎が述べたとき、僕の中でこの本への見方が宙ぶらりんになった。だがしかし僕も複数殺人の犯人が同一犯ではない例を扱ったミステリーを読んだことがないわけではない。ミステリーを読むとき、証拠探しに躍起になり、「どうせ犯人はあいつだろ?」としたり顔で探偵役の論理展開に臨む、その姿勢を真っ向突破されたからだ。登場人物一人ひとりを犯人として疑い、その人たちの気持ちを考えるという心理的な読解を疎かにしていたところを見事にやられたというわけだ。

実際のところ、(ミステリー中毒者の中で)あの下心満載で冴えない進藤が、ゾンビ化した星川に殺されたという論理をわかっていた人はどれくらいいるのだろうと気になりすらする。それくらい僕はこの小説を嘗めていたのだろう。そして、一度心理的読解をしてみれば、ミステリーであったはずのこの作品はまったく色を変える。葉村が静原をかばう心理、明智がゾンビにとらわれた直後の剣崎と葉村のやりとり、立浪の述懐など、従来のミステリーにあった合理性からは外れているとも思えた描写が大きな意味を持ってくる(実際は心理的な証拠と言えるのかも知れないが)。

この作品がメタミステリーであると言うために、テンプレートな展開のわりに謎が多く残ることも一役買っている。とくに「いや、班目ってなんだったんですか」とはだれもが思うだろう。多く残る謎には続編への伏線という意味があるのかもしれないが、僕はそれ以外にも、作者が「この作品はミステリーというわけではない」と表現しているようにも思えた。加えて登場人物の心理を追うことが求められる論理展開は、フィクションとノンフィクションの垣根を崩しにかかっていると言える。つまりメタフィクション=メタミステリーというわけだ。

 

と、ここまでつらつらとわかったようなことを書いてきたが、僕がこの作品に衝撃を受けたのも偶々、タイミングが良かっただけなのかもしれない。しかし、やはりミステリーといえど人間の物語である以上、そこに間違いなく心理は存在し、それを理解するのもやはり人間であろう。「この作品はミステリーである」という固定観念に僕は縛られていたわけだ。反省し、今後の豊かな読書生活、人間関係につないでいこうと思う。

 

今日は晴れていた

サイコロジカル(西尾維新) 再読した感想

だいぶ目標に対してペースが遅い気もするけど、とりあえずサイコロジカル上下で2冊読んだ。

 

再読だったわけだが、そもそもなぜ再読したかというと、前に読んだ時に兎吊木が生きてるという結末に納得がいかなく、それを解消するためというわけだ。

そんなわけで今回は納得できる論理を絶対に読み取るぞという気で読んだのだが、僕も賢くなっているのか通読するだけで簡単に理解できた(というか昔のぼくが如何に何も考えてない奴だったことか…)。とはいえ文中には兎吊木が死んだと明確に描写されていて、作者からすればそれはいーちゃんという語り部からの視点を書いたまでであるという理屈なのだろうけれど、それでは騙し放題なわけで、結局戯言な物語にすぎませんよと言い訳されているようで僕はこのような描写の仕方はあまり好きではない。けれどもこういうところがこの戯言シリーズの面白い部分であるのも確かで、言葉の持つ曖昧さという一面を極端なキャラに介在させることで感じさせてくれる作品であったとも思う。

 

僕は玖渚が好きだからこのシリーズを読んでいるときはよく彼女が何を考えているのか、何を思っているのかと思いを巡らすのだが、このサイコロジカルではその異次元さが垣間見えたようにも思える。結果的には玖渚は最初から事件の真相を看破していたうえで、マッドデモンにされるがままになり、解決に燃えるいーちゃんを自由にさせ、自分はただいーちゃんを待つという態度をとっていたわけだ。どういう思想かはわからないけれども、玖渚にとって自分自身やいーちゃんを含めた「人間」が、如何に陳腐で逸脱しない「存在」であるか、さらには「人」の持つ感性や思考といった「世界」が如何に価値を持っているかということを僕に感じさせた。

テンプレートな結びだが、やはり僕は玖渚のような超越した存在に常に憧れる。未来のサイコロの目は何か、過去がどうロジカルなのか、そんなことは言葉から生まれる戯言に過ぎず、リアルな現実に対して感じ、思考していくということに、玖渚は感じていないかもしれないけれど僕は幸せを感じられるようになりたいし、そのために努力を怠らないようにしたいと感想った。

 

 今日は晴れている

ここ半年、だいぶ精神がすり減っていてやりたいことに対するやる気が出ないという状態が続いてしまった。

 

だいぶ生活が落ち着いてきて、学校のテストももうすぐ終わるので、これから一年の計として読書習慣を再開することに決めた。

さしあたってこのブログでも読書の感想などを公開していきたいと思う。

 

テストは1/29に終わるのでそれから今年の一冊目に手をつけることになるが、それでも今年は200冊読了を目指す。

頑張りましょう。

 

今日は曇りだ。

世の中も今曇ってるように感じる。雨が降り出さないうちに何かしたいとも思う。

 

現代日本における地下室の手記

今度友達に読んだ本のプレゼンをすることになって、そこでドストエフスキー地下室の手記をパロって、現代日本の抱える引きこもり問題について語ってみようと考えた。

そんで、ここではまず日本の引きこもり問題について、僕が考えたことをアウトプットしていきたいと思う。

なぜ人は引きこもるのか。今日は問いについて考えてみたいのだが、意外と答えは簡単かもしれない。というのも、「引きこもる」という状態になるためには、引きこもった本人と、その本人以外と間、言わば「内」と「外」の間で問題が発生しているはずだからである。その形は学校や職場での人間関係、いびつな家庭環境、ゲーム依存症など様々であるが、つまり、先天的に引きこもるように決定されている人はいない(傾向や可能性についてはその限りではない)、ということだ。

地下室の手記と関連させるためにあえて愛という概念を持ち出すと、手記の著者にとってリーザの見せた愛は「外」からの「光」であったと言えることから、なぜ人は引きこもるのかという問いの一つの答えとしては、関係における愛の欠如、となるだろう。

 

では、現代日本における愛とはどんなものか、どうやってそれを手に入れるか。そういう話を友達に語ってきたいと思う。

 

              今日も晴れていた('ω')

 

 

 

自省…落ち着きのある生活をしたい

ぼくは今、毎日夜十時半に寝て朝五時に起き、自炊をし、英語、物理や数学、哲学を勉強し、毎週レポートを3~7種類書き、サークルの代表として仕事をこなしたり部員の面倒をみたりし、当然活動には積極的に参加し、習慣的に本を読み、ゲームにも真面目に取り組んでいる。

しかし、最近パンク気味であることが自覚出来て、たとえば朝起きても疲れがたまっていたり、日中頭が働かなかったりなどということが多いとかんじられるようになってきた。

正直辛かった。というのも、現状自分の時間があまりとれず、物理や哲学に対する疑問を探究することや、本を読んだりゲームの練習をしたりということがほとんどできない。このことがとてもストレスになっていることがわかった。

 

まあつらつらと感情的なことを書いてみたら整理できたから、このことから得られる教訓と反省、改善策を考えてまとめてみる。

まず教訓は、何かを試みるとき、一度にいくつものことに手を出さないということ、つまり、二兎追う者は一兎も得ずということだ。

そんでもって改善策は、優先順位をつけること、そして時間がかかる読書と英語は夏休みまでとりあえずお預けということになると思う。

 

多分ブログに書く内容も、物理や哲学に関係することが多くなるけど、まあそれはいいだろう。

今日は晴れていた(*^^)v

 

メルロ=ポンティの「身体」「肉」から人間を考える

毎週金曜日は哲学の授業があるから、ブログに書くこともその復讐みたいな内容になってしまうが、とくに問題はないでしょう。

あと、今回から文字のデザインをいじってみる。

 

今日はメルロ=ポンティの「身体」と「肉」という概念を学んだ。それは簡単に言うと、「身体」とは自分の意識下の精神を映すモニタであり、「肉」はそのモニタの内と外を分けるガラス(厚さのない膜)のようなものということになるだろう。

ここでぼくがポイントになると思ったのが、「肉」を定義するとき、区別するが同時に存在する必要があるということである。どういうことかというと、先週意識について考えたときにも急所となったことだけど、ここでも、自分の「肉」を定義し、意識するためにはやはり他者の存在が必要になるのではないだろうかということだ。

メルロ=ポンティは「身体」に映るものを描こうとしたのが当時の画家セザンヌらである、つまり例えば、セザンヌの作品「サントヴィクトワール山」に描かれているものを、「セザンヌによって見られたサントヴィクトワール山」であるとした。

では、ぼくが「サントヴィクトワール山」を真に理解することができたとき、それは、セザンヌの「身体」をぼくがトレースできたということにならないだろうか。セザンヌの「身体」モニタに映るものを俯瞰的かつ直接的に見ることができていると言えないだろうか。もしそうなら、「身体」が他人と共有されるものであるなら、「肉」こそが「自己」を表す大きな要素になるであろう。

ここで、「肉」は他者の存在によって定義が可能になるという性質を思い出すと、その「肉」によって決定される「自己」も、他人の存在によって定義されると、そういうことになるだろう。

 

ぼくはこの「自己」と他人が定義の要素を互いに担いあう関係がとても面白いと思い、また、では「自己」を「自己」によって(哲学的に)定義できる存在が、例えば神ということになるのかもしれない、と考えた。さてどうなのだろうか。

 

                  今日は晴れていた。暑い…