八雲空の絵空事スケッチ

八雲空が感じたことを書きます

地下室の手記/ドストエフスキーを読んだ

今回読んだのは光文社から出版されている、安岡治子さんが訳したものを読んだ。

このブログでは初の書評的な内容になるが、ぼくはただ感想をつらつら書くのではなく、不特定の誰かにプレゼンするような気持ちでアウトプットをしていきたいと思う。

とはいえストーリーがある小説についてちゃんとしたアウトプットをすることは案外難しいと感じたので、できるだけ簡潔に、シンプルに書こうと思う。

 

以下、簡単のため主人公「おれ」をD氏と書くことにする。

ぼくはこの本についてアウトプットするにあたって、D氏に着目することで、感情を中心とした負のサイクルと、物語の中で垣間見えた、「負からの脱却」について語りたい。

一貫してD氏は、自らを賢いと評価しながらも、その秀でた頭脳をうまく利用することができず、常にその時の感情で行動してしまうキャラクターとして描かれている。さらに第二部ではそのようなキャラクターとしての性格が災いするエピソードが展開される。ぼくはこのD氏の性格と導かれる災厄的な結果を、「負のサイクル」としてまとめて捉えてみた。そうするとD氏は、{地下室では自分は賢いのだと考える⇒外に出ると、プライドのために、悪い結果になることがわかりきっていてもそこへ突っ走る⇒当然悪い結果になり、再び地下室に籠る⇒屈辱に燃え、見栄を張るために再び外に出てくる}という負のサイクルにはまっていることが見えてくる。

さて、しかし本書第二部後半ではリーザという女性がこの負のサイクルからの脱却への光を見せる。それは、リーザがD氏の部屋を訪れたときに見せた、ヒステリーを起こしたD氏を抱きしめてあげるという、D氏への同情のことである。それはつまり、自らの感情を、他人の感情によって制御するということであり、その場その場の感情によって行動してしまうD氏にとっては、感情というものを肯定しながら、それをうまく運用できるようになるための嚆矢となる、まさしく光であると言えるのではないだろうか。

 

結局D氏はその光を捕えきれず、再び地下室に籠る生活を始めるのだが、ある意味でこの結末こそ人間らしさをよく表現しているのではないかとも思う。つまるところ、人間は自分らしさを捨てきることができないということなのかもしれない。

 

最後にぼくの考えの結論として、愛と感謝の尊さを述べたい。他人という本来自分と対等であるはずの存在に対して、自分が他人より優位でありたいがために、驕りが生まれ、自己嫌悪に苛まれ、地下室に籠り自分を慰める。

愛や感謝は、本来の対等性の担保ともいえるシステムではないだろうか。自分が賢いから、という考え方ではなく、相手がいたから、仲間がいたから、という感覚を持ち、そこに感謝しその人たちを愛することで、光を捕えられ、さらには自らが光となれるのではないだろうか。

 

本書の表現や人物像についての関係や分析は専門家に任せるか、また機会があったらということにしたい。

 

                  今日は雨が降っていた(・∀・)