八雲空の絵空事スケッチ

八雲空が感じたことを書きます

量子力学の文系的応用

ぼくは大学で物理を専攻している関係で、現在量子力学の授業を受けている。

今回は量子力学の授業で学んだ考え方が、日常の意識に応用できると思ったことがあったので、それをアウトプットしていきたいと思う。

 

何が応用できるのか、それは、量子の世界では同時に複数の座標の状態を知ることができるということである。

これはどういうことかというと、僕たちの日常を記述するNewton力学では、量子力学の世界で観測されるポテンシャルの平均値を記述しているのであり、それを逆に言うと、量子力学の世界では、普段ぼくたちが感じるポテンシャルを複数の状態に分けて記述することになる、ということである。

このことを日常の意識にどう応用するか、それは簡単に言えば自分は人間であり、人間はいっぱいいるが、「人間」は平均的であるということである。

つまり、ぼくは1つの量子で、平均的な人間の基準に当てはまることもあれば異端児となることも十分にあり得るのだ。

このことを意識すると、自分がチャレンジしたいことがあるのに、周囲からの批判を恐れてできなかったり、周囲の目を気にしてありきたりな服を毎日着るという拘束から逃れやすくなるのではないだろうか。

 

ソーシャルメディアが隆盛し、グローバル化が加速しているこの時代、自分で考え自分の判断に自信を持つ必要はかなり高いと言える。

1つの量子として、異端児として、自らの人生を勝ち取っていきたいと思う。

 

      今日は晴れなのだ(#^.^#)

 

 

地下室の手記/ドストエフスキーを読んだ

今回読んだのは光文社から出版されている、安岡治子さんが訳したものを読んだ。

このブログでは初の書評的な内容になるが、ぼくはただ感想をつらつら書くのではなく、不特定の誰かにプレゼンするような気持ちでアウトプットをしていきたいと思う。

とはいえストーリーがある小説についてちゃんとしたアウトプットをすることは案外難しいと感じたので、できるだけ簡潔に、シンプルに書こうと思う。

 

以下、簡単のため主人公「おれ」をD氏と書くことにする。

ぼくはこの本についてアウトプットするにあたって、D氏に着目することで、感情を中心とした負のサイクルと、物語の中で垣間見えた、「負からの脱却」について語りたい。

一貫してD氏は、自らを賢いと評価しながらも、その秀でた頭脳をうまく利用することができず、常にその時の感情で行動してしまうキャラクターとして描かれている。さらに第二部ではそのようなキャラクターとしての性格が災いするエピソードが展開される。ぼくはこのD氏の性格と導かれる災厄的な結果を、「負のサイクル」としてまとめて捉えてみた。そうするとD氏は、{地下室では自分は賢いのだと考える⇒外に出ると、プライドのために、悪い結果になることがわかりきっていてもそこへ突っ走る⇒当然悪い結果になり、再び地下室に籠る⇒屈辱に燃え、見栄を張るために再び外に出てくる}という負のサイクルにはまっていることが見えてくる。

さて、しかし本書第二部後半ではリーザという女性がこの負のサイクルからの脱却への光を見せる。それは、リーザがD氏の部屋を訪れたときに見せた、ヒステリーを起こしたD氏を抱きしめてあげるという、D氏への同情のことである。それはつまり、自らの感情を、他人の感情によって制御するということであり、その場その場の感情によって行動してしまうD氏にとっては、感情というものを肯定しながら、それをうまく運用できるようになるための嚆矢となる、まさしく光であると言えるのではないだろうか。

 

結局D氏はその光を捕えきれず、再び地下室に籠る生活を始めるのだが、ある意味でこの結末こそ人間らしさをよく表現しているのではないかとも思う。つまるところ、人間は自分らしさを捨てきることができないということなのかもしれない。

 

最後にぼくの考えの結論として、愛と感謝の尊さを述べたい。他人という本来自分と対等であるはずの存在に対して、自分が他人より優位でありたいがために、驕りが生まれ、自己嫌悪に苛まれ、地下室に籠り自分を慰める。

愛や感謝は、本来の対等性の担保ともいえるシステムではないだろうか。自分が賢いから、という考え方ではなく、相手がいたから、仲間がいたから、という感覚を持ち、そこに感謝しその人たちを愛することで、光を捕えられ、さらには自らが光となれるのではないだろうか。

 

本書の表現や人物像についての関係や分析は専門家に任せるか、また機会があったらということにしたい。

 

                  今日は雨が降っていた(・∀・)

 

 

 

哲学を学んでいて感動したこと

 

昨日哲学の一つの分野である現象学の授業があり、メルロ=ポンティの他者論を学んだ。そこでは、自己が持つ意識は、対象となる物質や精神があって初めてそれを意識できるはずで、自己や他人も意識される以前では共存していて、意識する/されることで発生する分化も、共存状態の延長であると言える、という論理が展開された。メルロ=ポンティはこれを間身体性という概念を用いて説明している。

メルロ=ポンティはこの考え方から個人主義を批判する。つまり、個人主義は自らに存在する制限(例えば身体)の範囲における自由がすべてという考え方だが、間身体性という観点から考えると、自由を意識できることもまたその対象があってこそであり、自由を意識するための自己の意識の発生に不可欠といえる他者、延いては他人の意識を蔑ろに扱うのはおかしい、ということである。

ぼくはこの考え方を学んで感動してしまった。というのも、ぼくは今まで個人主義的な考え方を支持していて、他人への感謝を忘れがちな性格が強かったのだけど、間身体性という観点から考えることで、他人とぼくは違う存在だけど対等であるべき存在で、しかし両者の間にはしっかりとした境界があるということがよくわかったのだ。

また授業後に先生と話して、他者への意識と他者への感想は違うものであるということにも気づき、さらに感動が深まった。ぼくはぼく、他人は他人という当たり前のことだけど、初めて頭で理解できた瞬間だった。

 

今まで個人主義的な考え方により対人の際にもどかしさを覚えることが多かったのだけど、これからは他人は他人ということをしっかり理解したうえで、感謝を持って接していきたいとぼくは考える。

 

あと余談だけど、こういう感動は視野が広がったことによるところが大きいと思う。理系のぼくが、哲学をはじめ文系の勉強を好んでしたいと思う原因もそんなところにあったらいいなとか思った。

 

                      今日は曇っていた  ^^) _旦~~

 

ブログをはじめた理由と目標について(2019/6/6)

 

最初になんでこのブログを開設したかをメモって整理しておきたい。

もともと僕は自分が考えたことや読んだ本の感想をよく人にしゃべっていたのだが、そういう時は僕が一方的にしゃべった挙句、相手は大した興味を示さないという経験が多くある。

それでツイッターに本の感想などをつぶやいていたのだけれど、日本語140字は少なく感じてしまい、どうしても端折った文章になってしまっていた。

だからこれからは、好き勝手に書けそうなブログに書いていくことにしたというわけだ。

 

あとは、アウトプットの場として有効かと考えたから、過去の自分を見直しやすいからなどの理由もある。

これらが大切だと思う理由は別に書くとして、これまであまり文章にして考えを表現するということを真面目にやってこなかったというのもあり、とりあえず更新を継続していくというのが当面の目標である。

 

文章の終わりにQEDみたいなサインを形式的に置きたい…

ひとまず天気の話でもしておこう。

                        今日は晴れだった(*^^)v